介護のコラムを読む

介護日記・二人の父の雑記帳

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第33回 ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その3(まだ何でもできた)(2006年8月19日)

父が引越しして環境に慣れたこの頃、鍵は渡してありましたが勝手に外へ出かけることはなく、いつも家に居てくれました。
オートロックのマンションなので出るのは簡単ですが、入るのには父のマンションの場合簡単ではなかったので、一人で外に出かけることがなくて幸いでした。

「この先の坂を上がったところにお店があるから、買物に行ってみたら?」などと言ってみましたが、「そのうち行ってみるよ」と父。
今にして思うと、不用意な言葉を私は言ったものでした。
多分、この頃すでに道案内の手書き地図や言葉の説明だけでは、新しい環境での店の場所などわからなかったはずでした。
父も今までの家とは違って、外の環境がわからず一人で出ることの不安があって出なかったのだと思います。

それでも、何回かはすぐそばの酒屋に行ってカップ酒を買ってくることもありました。
酒屋のおばさんと話した内容を私に楽しく聞かせてくれました。

しかし、後に認知症が進むと、外出ではなく徘かいしてしまうことが度々ありました。

この頃のタクさんは以前と違って不潔なことも平気になりました。
それも認知症によくあることだと、後に知りました。
認知症になると、何をするにも意欲や関心がなくなり面倒になる…その結果、不潔に見えたりするわけでしょう。

認知症以前はお風呂が大好きで毎日入っていたのに、入らなくなりました。
お風呂の用意をしても、後で入るからいいとか、色々言い訳して入らなくなりました。
私も面倒なので、風呂に入らないからといって死ぬわけではないからと、入浴は外出がある前日など必要最低限の回数にしていました。
お風呂の準備と着替えの用意さえすれば、まだ一人で入れ、入浴後は「気持ちよかった~」と、良い笑顔でした。

しかし、暑い夏でも服を何枚か重ね着していることもしばしばで、それで暑くない様子でした。
着替えが面倒で、洗濯するから着替えるように言っても、「まだ汚れてないからいい」と、なかなか着替えなくなりました。

同じ事を度々尋ねたり、同じ事を何度も続けて話すので、「それ、さっきも話してたよ」と私は面倒になりよく言いました。
ずっと後に、何度も同じ事を聞かれたり話したりしても、初めて聞いたように応えた方が良いと知り、それからはそのようにしました。

父は大きなカレンダーに過ぎた日には×印をつけて、今日はいつで何曜日か、よく私に尋ねて確認していました。
日付と曜日表示が付いた掛け時計を買って目に付く場所に取り付けると、それをよく見て確認していることもありました。
日付は聞いて分かっても、それが何の季節なのかはわかっていませんでした。

カレンダーに病院に行く日に印を付け、前日にそれを伝え、着ていく服を用意して、それを紙に書いてわかるようにし、当日も電話でそのことを再度伝えてから父の元へ迎えに行くと…何にも支度ができてなくて父は何食わぬ顔をしていて、私が慌てたということもよくありました。
いくら前もって言っておいても、書いておいても、忘れてしまい無駄でした。

逆に、父は言われた予定が気になってたまらず、何度も何度も「それは今日なのか?」と何日も前から尋ねて心配になっていることもありました。
予定はギリギリまで伝えないことにしました。

簡単な家電なら使えたので助かりました。
エアコンもセットしておけば、リモコンでON・OFFすることぐらいはできましたし、電子レンジも使えました。

私がいない時間に食べる物などは、「○○が冷蔵庫の下の段にあるから食べてね」とか、「電子レンジで2分温めて食べてね」などとメモ用紙に書いて決まった場所(食堂のテーブルのそばの壁)に貼っておけば、指示のようにできました。

「○○さんはどうしているかな?一人で退屈してないかな?」とか、まだ知り合いや親戚のことは覚えていて気になっていたようでした。

今は亡き父の姉(父と親しかった)がたまに電話してきて、二人で長話をしていました。
この頃、父の姉も軽い認知症になっていて、認知症同士、同じ話を何度も繰り返し堂々巡りの内容で、聞いていて笑えました。

それでも、この頃は今思うと、まだまだ良かった頃でした。
無理なことですが、せめて、この頃の父に戻ってくれたらいいのに…。

[参照]
>タクさんの病歴と経過 その1 
>父の認知症の兆候  
>ボケたタクさんの元へ通い始めた頃
>ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その2(物忘れ)

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