介護日記・二人の父の雑記帳 第251回〜

【第274回】父の看取り…私の場合(2008年12月17日)

以前「最後の1ページ」を書き、幕を下ろしたこの日記ですが、まとめの意味を込めて「付録」を付けることにしました。

先日、私が勤務する特養の家族会で「看取り」についてのセミナーがあり園長と家族会からの依頼で全3例を紹介し、その例の一つとして私が父の看取りについての講師をさせていただきました。
元特養入居者家族、現在この特養の介護職員という立場での発表でした。

講師と言っても素人の私ですから、父の介護と看取りに関する話を、特養に入居されているご家族と一般の方々約50名の前でお話ししたに過ぎません。
一人15分位の発表予定でしたが、私はダラダラ20分以上話してしまったように思います。
前日に話す内容の原稿を書いて、それに沿って話したのでほとんどあがらずに済みました。
参加された方々からのアンケートでは、とても良かったとのお言葉をたくさんいただき大変恐縮しております。
私が話した内容の原稿をここに載せるのはいかがなものか、と迷いましたが、「亡くなった父に報告したい」という気持ちとして掲載します。
父の三回忌を10月に無事済ませ、今回の発表もあり、父の死とその後は、天国の父に喜んでもらうことができるように思います。
お父さん、本当にありがとう!!

<以下、セミナーでの発表内容>
自分らしい人生:いろいろな生き方・異なる幕引き
事例「家族(娘)として、いかに父を看取るか。心の準備ができないままに…」

ただいまご紹介頂きました介護職員のえすえです。
実父がこの特養で2年前に亡くなるまでは私も家族会の一員でした。
このような催しにはいつも参加させていただきましたが、まさか自分が話す立場になろうとは考えもしませんでした。
父は今から4年半前に特養に入居し、2年半過ごし、2年前の秋に85歳で亡くなりました。
要介護4でした。
この特養に父が入るまでの在宅時、私は父の家に毎日通う「通い介護」という形を取っていました。
父が認知症になったかもしれないとわかったのは今から、15年前の1993年頃。
父は妻に先立たれ、私の独身の弟と千葉県で二人暮しをしていたのですが、ボケた父と弟の二人だけにしてはいけないと考え、また、私は父と同居はできない状態だったため、私が住む家のすぐ近くに(自転車で7~8分)弟と一緒に引越してもらいました。
父には半年位時間をかけて引越すことを承諾してもらいました。

父は弟と同居といっても日中一人になってしまうため、毎日父の家に通い、10年間通い続けました。
当初は認知症の父の状態は進行も遅く、体は比較的丈夫で内科的な入院が2~3回あったものの、何とかなる時期でした。
足腰が丈夫で、昔からおでかけ好きな父と、この時期は通院ついでにあちこちにでかけ、色々な話しをして楽しい思い出がたくさんあります。
2000年の介護保険制度が始まった翌年辺りから、失禁や徘徊が始まり、2002年からキートスのデイ、ショートを定期的に利用するようになりました。
父はおでかけが大好きな人だったので、デイには喜んで通ってくれて、とても明るくなりました。

朝、父がデイに出る前に私が父の家に行き、父の支度をして送り出し、父の洗濯など家事をして、私は仕事に行き、父がデイから帰る前に仕事を終えて父の家に行き、デイから帰る父をお迎えし、父が寝る頃まで父の家にいて仕事から帰ってきた弟とバトンタッチする毎日でした。
ちなみに、父は入浴に手こずるので、デイでの入浴は一切せず、一日おきに私が父の家で入浴させていました。
こんな日々がいつまで続くのかと、不安な反面、父と共に散歩をしたり、いろいろな話しをしたり、一緒に歌を歌ったり、今、振り返ってみると、父とこんなに密着して過ごしたことは初めてのことで、大変だったけれど、楽しかった日々だったと今は思えます。
私は元気だったのですが、父と同居の弟が心身共に弱かったため、仕事に出る前の早朝や夜間、父の面倒を看ることが相当辛くなってきていました。
二人のどちらかが倒れたら、成り立たない状況でした。
そのため、一時期父は2カ所のグループホームに入所したこともありますし、訪問ヘルパーさんを利用したこともあります。

この頃、父は「頭はバカになっちゃったし、生きていてもしょうがない。
早く首をくくって死にたい」と漏らしていたこともありました。
また、「下の世話にだけはなりたくない」と言っていましたが、すでに下の世話にはなっていました。
そして、「死ぬなら、コロッと死にたい」「ポックリ逝きたい」
「体に管など色々付けて死にたくはない」そういつも言っていました。
ボケてはいても、まだまだ話ができていたこの頃、私は父から、もしもの場合に備えて色々と聞けることは聞いておきました。

私の母は53歳で肝臓癌で亡くなったのですが、父は妻を病院で懸命に看ていました(当時父は61歳)。
当時、私も父と共に病院に泊り込んで面倒を看ていたのですが、父の懸命さに心打たれました。
この時のことがあったため、その後、父を介護するようになって、父に何かが起きたら、父が母にしていたように、最後まで父を守りきってあげたいと思うようになりました。
父は弟に比べ、私にはとても厳しい人だったため、私は恨んでいた部分もありましたが、介護するうちに、そんなことを思っている場合ではなく、そんな思いはつのまにか吹っ飛んでしまいました。

私の通い介護が10年続いたころ、申し込んでいた特養に入居できることになりました。
突然入居の話が来て、まだもう少し家族で面倒をみたい、父と離れるのは寂しいという気持ちと、いえいえ、弟がもう一杯一杯だから…家族が無理な部分は施設にお任せして、家族は家族でなければできないことを施設に入ってからもすれば良いと考えました。
この頃、父を10年介護した集大成として、ヘルパー2級の資格を取りました。
この時、介護を仕事にするかどうかは、はっきり考えてはいませんでした。
ただ、父を10年看たことの形を残しておこうと思ったのです。

この特養に入居した時、父は83歳。
さあ、これから、新たなスタートでした。
施設に入っても、家族でなければできないことを父のためにしていこうと思いました。
そして、その時その時が楽しく、居心地良く過ごしてもらえればそれでいいと思いました。
在宅の頃、父といつも歌っていた歌を一緒に歌いました。
時には同じユニットの方々とも一緒に歌いました。
父の繰り返しする同じような話にも、家族でなくてはわからない部分があっていつも聞き役に回り、話しを引き出しました。
在宅の頃と同じに、爪切りやヘアカット、髭剃りは私がやりました。
職員さんは忙しく手が回りそうもない、たんすの中の整理や居室の拭き掃除は行くたびにしていました。
私は仕事があるので時間は限られてしまいますが、週2~3回は通って、何かあったらすぐ駆けつけられる体制でいました。
また、父が入居したことで手が空き、今までできなかった父の残務整理などを少しずつ片付けることができました。

父は入居しても元気に過ごしていたのですが、亡くなる1年前に父の最期を考えるきっかけが起きました。
脱水症状を起こし、意識朦朧となり病院受診となったのです。
点滴だけして帰ってきたのですが、この頃、腰も痛めていて悪いことが重なったため、弱々しく、父も先が長くないかもしれないと初めて感じました。
この時、まだ父の葬儀のことなど考えておらず、このまま亡くなったら困る。
もしもの時のことを具体的に考えておこうと思いました。
メモ魔の父の影響もあり、父のことを手帳などにそれまでも記録していたのですが、父の先が長くないと感じて、今まで以上にしっかり記録をつけました。
父の言葉などを残しておこうと思いました。
また、父の看取りについても考えるようになりました。

特養入居前から、なぜか体重が減ってきていたのですが、この頃父は歯の具合が悪く、食が進まなくなり、その後、嚥下障害を起こし、飲み込みにくくなり、ますます体重は減り続けました。
食事は介助されることを嫌がり、かといって自力では上手く食べられず、亡くなる数カ月前から、私は夕食の食事介助に一日おきに通うようになりました。
夜は職員さんも少なくなるし、夕食時でないと私の都合がつきにくかったからです。
この頃、亡くなる3カ月程前、父は私に「今まで色々ありがとう」と言ってくれています。
亡くなる2カ月前に誤嚥性肺炎で1カ月入院しましたが、病院での夕食介助は毎日通いました。
父は病院のナースではダメでも、私ならよく食べてくれました。
食べて体力をつけて元気になってもらいたい一心でした。

父の死は突然やってきました。
退院後1カ月たった頃、再び誤嚥を起こし、緊急入院となり、病院に入って5時間余りで急に容態が悪化、突然亡くなってしまいました。
退院後、特養でおぼつかないながらも日ごとに元気を取り戻し、亡くなる前日も私と歩行練習をしたり、笑ってもいたのに、亡くなる日も普通に過ごしていたのに。
いつかは来る日でしたが、思いがけず突然でした。
医師もこの日、亡くなるとは思っていなかったようで、翌日の検査予定などを組んでいたところでした。
私も父の様子から、単なる入院で、まさかこの日に亡くなるとは夢にも思いませんでした。
病院に着いたばかりの時、「お父さん、大丈夫?」と私が聞くと、父は「すみません」とひとこと。
これが父の最期の言葉でした。
ずっと付きっきりでいて、亡くなる数時間前から父の意識はなかったのですが、亡くなる寸前、目を開けて私を優しい眼差しで見てくれました。
「お父さん、わかるの?!」と声を掛け、ひょっとして持ち直すのではないかと思える穏やかさでしたが、その数分後静かに亡くなりました。
私に最期の挨拶をしてくれたのかもしれません。
この時、父は酸素マスクをつけていただけ。
延命措置など取る余裕もありませんでした。
「コロッと死にたい」「ポックリ逝きたい」と以前から言っていた父の言葉通りになりました。

延命措置について、どうするか以前から考え迷っていたのですが、それどころではないあっけなさで、父の望み通りでした。
けれど、これで良かったのだと、この1年だんだん弱々しくなる父の様子をみてきて思いました。
私は病院に入ってからの父の急変にも意外と冷静で、父が危ないから早く来るよう家族に指示をしたりしました。
もしもの時のことを考えておいたため、冷静でいられたのかもしれません。
ただ、まさかこの日に亡くなるとは思っていなかったため、以前から決めていた葬儀屋さんの電話場号の控えを持っておらず、
慌てて病院の電話帳からその番号を探し出し連絡しました。
父の場合、認知症13年ではあっても、亡くなる日まで、的外れでも何とか受け答えができました。
話しを聞いてもらいたい父の、どうどう巡りの話を聞いてあげること。
歌が好きな父と歌うこと。
父の笑顔を引き出すこと。
父の好きなおやつを一緒に食べること。
こんな風に、在宅でもしていたように、父との時間を持つことが、私の場合の看取りと言えるかもしれません。
戦争にも行き、様々な苦労をした父の人生の重みを良い部分も悪い部分もひっくるめて理解することができたのは、父を介護するようになってからでした。
父の人生の重みを理解し晩年を大切にすること。
父とできるだけ共に過ごしたこと。
これが私の場合の看取りだったように思います。

悔やまれることといえば、認知症の初期の頃や特養に入ってから、もっともっと父とおでかけや旅行、墓参りなどできれば良かったことです。
亡くなる数カ月前に職員さんの提案で、昭和記念公園に行けたことはとても良い思い出になりました。
今、ここの職員になって、改めて思うことは…。
家族の立場で思っていた以上に、施設では手が足りないし時間も足りない。
それでも職員は想像していた以上に頑張っています。
そんな中で、家族でなくてはできない触れ合いが必要だとつくづく感じています。
私は父にそれができて良かったと思いました。
余談ですが、現在、主人の父も要介護状態で別の施設におります。
義理の父となると、実父とはまた違って色々難しいです。
こちらは、先に逝った父の事例を踏まえつつ、何とか現在進行形で頑張っているところです。
世の中には、もっと介護や看取りで苦労された方もおられると思います。
そんな中で、私のような若輩者の話に耳を傾けていただき、本日はお忙しい中をありがとうございます。
このような場で、父の介護や看取りの話しをする機会をいただいた事を大変嬉しく思います。

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