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介護日記・二人の父の雑記帳

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第110回 タクさん危篤時の裏話 その2(2006年11月5日)

他にも裏話があります。
父の危篤時には、以前から気になっていた延命措置を施すことはありませんでした。

◆延命措置
入院時の父の処方は、特養を出る時から着けていた酸素マスク。
病院で始めた点滴、ソリタT3号 500ml の2本目と抗生剤のロセフィン1g の同時点滴。
これと、適時に酸素の増量、痰の吸引。
これだけの処方で繋いでいきました。
父が最後に体に装着していた器具は、この点滴と酸素マスクだけでした。
血圧は亡くなるまでに2~3度計っただけ。
機械による脈拍の波長計測は亡くなって死亡確認の時に付けて計っただけでした。

でも、父の場合はそれで良かったと思っています。
状態が急速に悪化した時点で(深夜11時半ごろ)、看護士が当直医からの指示内容を私に伝えました。
深夜のため、緊急入院時に父の検査結果について説明をした呼吸器科の医師はもうおらず、当直医は脳外科の医師でした。
高齢のため、無理な延命措置は取らず、点滴継続と酸素量の増量で様子を診て行くこと…でした。
私も異論がないと伝え、これで「父の生命の行方」は決まりました。
あまりに自然な成り行きに、あっけなさを感じたほどでした。

「高齢のため、無理な延命措置はしない」。
確かにそうだと思いました。
以前、延命措置を取らなければならない時どうするか?を書いたことがありましたが、父の場合は取り越し苦労に終わりました。
今回の緊急入院時に呼吸器科の医師から、「食べ物を食べてはいけない」と言われ、付き添って下さった特養の職員さんに父が胃瘻(いろう)になった場合のことなど相談していたほどでしたが、それを行うまでもありませんでした。
ちなみに、今回緊急入院した病院は父の特養でよく利用する、近隣の救急病院でした。
父が8月下旬に一度救急受診で日帰り点滴を受けた病院ですが、1カ月間入院していた病院ではありません。
8月下旬から1カ月間、誤嚥性肺炎で別の病院に入院しましたが、この頃は父の酸素濃度は悪くありませんでした。
かなり呼吸が苦しそうなことはあっても、指先を洗濯バサミのような物ではさんで計る酸素濃度の値は、通常値の範囲ギリギリに収まっていました。
今回の緊急入院に当たっては、父の見た目の様子は以前の入院時とあまり変わらないように見えました。
しかし、酸素濃度は前回の値より最初から低くなっている所が違いました。
父は通常、93とか95とかの酸素濃度でしたが、亡くなる2時間前頃の急速に悪化していった時、酸素濃度は70台…60台…と、どんどん下がっていきました。
私一人で看ている時、ついに30台まで下がってしまい、ナースコールを押しました。

痰の吸引も頻繁に行われました。
食後吐いたそうですが、吐ききっていなかったようで、時々父が吐きそうになり吸引すると、食事の残りが吸い上げられました。
夜勤の看護士さんはとても心優しい方で、父に「ごめんね~ごめんね~」と言いながら痰の吸引をしました。
吸引時、いつものことですが、父はかなり苦しそうで辛そうでしたが、吸引すると酸素濃度が上がるのです。
そのせいか、吸引は何度も行われ、その度に「ごめんね~辛いね~」と看護士さんは涙声で言っていました。
亡くなる40分位前(深夜12時半ごろ)には、痰の吸引をしても酸素濃度が上がらなくなってきました。
そして、血圧がグッと下がり、最後に血圧を測った時には、上が40位に下がっていました。

「もう痰の吸引はしなくていいです」と、やっとその頃私は言いました。
もう、痰の吸引に父は抵抗することもなくなり、意識もなくなっていました。
痰の吸引を続けるのは父が辛そうで見るに忍びなかったのですが、酸素濃度が回復するのでついついしてもらっていました。
もっと早い時点で吸引を止めてもらった方が、父のために良かったのかもしれません。
でも、あの場で、少しでも回復してくれれば…との思いの、私のささやかな延命措置だったとも言えるかもしれません。

私は24年前に母が癌で亡くなるとき、その場にいあわせませんでした。
いつも病院に付きっ切りでいたのですが、その日はそばにいなかったのです。
母が亡くなる時は延命措置づくしでした。
母は53歳の若さで、しかもわかった時は手遅れだったため、父が母にできるだけ生きて欲しいと願っていたからだと思います。
亡くなった直後も医師が強く胸を押して、人工呼吸を何度も試みたそうです。
癌の転移や状態も酷かったこと、大学病院であったため、解剖もしました。
父は母に比べたら、自然体で安らかでした。
ただ、痰の吸引は多すぎてしまい可哀想なことをしたと思っています。

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