介護のコラムを読む

介護日記・二人の父の雑記帳

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第39回 認知症初期のタクさん その4(メモ魔の父)(2006年8月25日)

父は几帳面な人で昔から字を書くことが好きでした。
筆を持つと大変達筆で、私が小学生のときには手を取って書道も見てくれました。

達筆なだけなら良いですが、大変なメモ魔でした。

昔、家族揃って車で出掛けたときは、「○○時出発。○○時、○○インター通過。○○時、○○到着」「○○料金所、○○円支払い」などと、父は助手席の母に全部書かせていました。
母がいないときは、代わりに助手席に座った私が書く役目でした。
父一人のときは、もちろん自分で書きます。

電車やバスで出掛けたときも、その場その場で手帳に書いていましたので、一緒にいると、かなり鬱陶しいものでした。
在宅時でも、起きた時間、トイレに行った時間などを書いていました。
母が入院中で重態のときも枕元にメモ帳を置き、点滴を始めた時間、交換した時間など、こと細かく書いており、父がいない場合は傍にいる者が書くことになっていました。

そんな父を見て育った私もメモすることが好きです。ただ、さすがに父のやり方は行き過ぎで、あまり意味がないと思っていましたが、言う通りにしていました。

「こうしておけば、いつ何があっても、他の人にもよくわかるだろ?」と、父の持論でした。
父の母(私の祖母)が、記録を取る人だったので、父は影響を受けたのでしょう。
持ち物には買った日付、買った店、値段、そして自分の名前を大抵書き込んでいました。

そんな父でしたので、認知症になってもその行為は続いていました。
ベッドに置いたメモ帳に、時間は書いてありましたが日付が書いてないので、いつのことなのかわかりません。
そのうち、そのメモ帳に自分の思いを書いていることもありましたが、字が達筆過ぎてよく読めませんでした。

1997年頃?だったか、父の毎日の生活に張りを持たせようと「般若心経」の写経を勧め、それ用の本や筆を父と一緒に出掛けて買い求めました。
書くことが好きな父にはピッタリだと思ったのですが、半分位書けた写経が何枚かありましたが三日坊主で終わりました。
般若心経の細かい文字の羅列は、集中力がなくなった認知症の父には無理だったようです。

ある時、家具にマジックで父の名前が書いてあるのを見つけました。
メモ魔の父でも認知症以前には、さすがに家具には名前を書きませんでした
全部漢字で以前より下手な字で書いてあったので、まだ認知症があまり進行していない時期に書いたと思われます。

2002年前半にデイで書道をやり、書いた自分の名前はひらがな交じりでした。
この頃、認知症発症9年。もう難しい漢字は書けなくなっていました。
書いた文字も間違っていて似ている文字でしたが、達筆な文字の面影はありました。
そして、2002年の後半には、あれだけ書くことが好きだった父なのに、文字は全く書かなくなりました。

父のマンションに毎日通っていた頃、私は父のその日の様子を「連絡ノート」に書いて、私が帰った後に帰宅する弟が見てわかるようにしていました。
これは父が特養に入居するまでずっと続けました。
そのノートを時々父が見ているようで、見た所にアンダーラインが引いてありました。

2001年10月に、ノートを見た父がピンクのサインペンのたどたどしい文字で、ページの片隅に私宛の書き込みをしていました。
これ以降、私宛に書かれた言葉(文字)はありません。
今となっては、父から私宛の最後の文字なのです。(まだ亡くなったわけではありませんが)
だから、この書き込みがある連絡ノートは記念に取ってありますが、今、久しぶりに出して見ました。

「えすえへ 父より 何にかと 心ペイしてくれ     いろいろ 心パン アリガトー」
(「えすえ」以外は原文のまま)

そして、私が「次は月曜に来ます」と書いた所に父がピンクのアンダーラインを引いてありました。
土日を挟んで行かなかったので(弟が休みで居たので)、私が来るのを待っていたのかもしれません。

これを書きながら、不覚にも私は今、泣いてしまいました。

[参照]
>タクさんの病歴と経過 その1 
>父の認知症の兆候  
>ボケたタクさんの元へ通い始めた頃
>ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その2(物忘れ)
>ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その3(まだ何でもできた)
>認知症初期のタクさん(入院はこりごり)
>認知症初期のタクさん その2(初めての迷子)
>認知症初期のタクさん その3(最愛の姉の死)

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