介護のコラムを読む

介護日記・二人の父の雑記帳

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第34回 イズさんと戦争(2006年8月20日)

先日、タクさんの戦争との関わりを書きました。(参照→タクさんと戦争)

8/15を以前は「終戦記念日」と呼ばれていて、私もずっとそう呼んでいましたが、いつのまにか「終戦の日」と言うようになったようです。
「タクさんと戦争」では、意識的に「終戦の日」と書きました。
終戦の日が遠ざからないうちに、イズさんと戦争についてのことも書いておきます。

義父イズさんの戦争との関わりは、タクさんと同じ大正10年生まれなのに、戦争には行ってないとしか聞いていませんでした。
戦争の経験談をよく語っていたタクさんと違って、イズさんは私の夫にも戦争の話はほとんどしなかった、したがらなかったそうです。
夫が小学生の頃、少しだけ話したことがあったそうで、その記憶を元に、夫が最近靖国神社へ行ったとき、イズさんが語った戦争に関するパンフレットを見つけ持って帰って来ました。

そのパンフレットとは「陸軍が行った海上特攻―米軍を震撼させた挺進爆雷艇―」という物々しいタイトルのパンフレットでした。
ゼロ戦の特攻隊のことはあまりに有名ですが、日本の敗戦が色濃くなった頃、ゼロ戦を作る物資もなくなり、ゼロ戦に代わる「挺進爆雷艇」(ていしんばくらいてい)が作られ、その爆撃訓練が密かに行われていたことを著すパンフレットでした。

「挺進爆雷艇」とは、人一人だけが乗れる木製のボート(普通の釣り船程度の大きさ)に動力として車のエンジンを積み、爆弾を積んで体当たりするものです。
ゼロ戦なる飛行機で敵の艦隊への体当たりなら少しは効果があったかもしれませんが、木製のボートで体当たりするなんて、どう考えても効果はなさそうです。

そして、こんな体当たり艇があったことは、当時も極秘中の極秘であって、その後も報道で殆ど語られてなかったので、私も全く知らなかったことでした。
そこまでして戦わなければならなかった当時の日本国と軍のどうしようもなく悲惨な状況。
竹槍で敵を倒せと教えられ訓練に励んだ愛国婦人と同じような、負け戦、捨て戦法です。

イズさんは、終戦少し前に広島でこの挺進爆雷艇の訓練に参加していたそうです。
部隊の移動があり、広島に原爆が落とされた時は危うく難を逃れたそうです。
そして、実際に挺進爆雷艇での海上特攻を行わないうちに、幸いにも終戦を迎え、命拾いをしたそうです。
昭和20年8月15日、天皇陛下の玉音放送で終戦を知ったのは、東京駅傍の丸ビル(焼け残った)を目の前にして仕事中のときで、ビルを眺めながら「戦争に負けたんだ…悔しくてたまらない!!」と、最近私にもその心情を語ってくれました。

老健に入所中の義父イズさんは、ちょっとボケた所も時々ありますが、認知症ではありません。
なので、イズさんにはこのブログのことをわかる程度に伝えてあります。
「イズさんのことを記録として残しておきたいの」と伝えると、大変喜んでいました。
今回のこの記事も、「記録の一つ」として読んでいただければ幸いです。

ちなみに、タクさんは軍歌が愛唱歌ですが、イズさんは全く軍歌は歌わず、好きな歌は「東京ラプソディ」(藤山一郎)です。

私には平和がどうとか、戦争がどうとか、靖国がどうとか、それらを語れるほどのものは持ち合わせておりません。
ただ、実際に戦争を体験した両父の貴重な話を忘れないようにしたいと思いました。

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