介護のコラムを読む

介護日記・二人の父の雑記帳

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第26回 ボケたタクさんの元へ通い始めた頃(2006年8月9日)

今から13年位前(1993年)、タクさんがボケ始めた頃のことを思い出して書いてみます。

[参照]
>タクさんの病歴と経過 その1

父の認知症の兆候

前にも書きましたが、元々私は父とは同居はしておらず、父は独身の私の弟と二人で暮らしていました。
ですから、日常的な細かいことはよく分かりませんが、時々電話して話す分には特にボケた風には感じませんでした。
後で思うと、月々の決まった振込みをよく忘れたとか、お金がないわけないのに、私に金を貸してくれと言って、実際私が貸したことなどが気になった程度でした。
しかし、滅多に私に電話してこない弟が、父は日中お酒ばかり飲んでボーッとしていることが多い、ボケたんじゃないか?と言ってきたことで、すぐピンと来ました。

父の自宅は私の家から電車を何度か乗り継いで約3時間、直線で80kmの距離が有り、何かあってもすぐ駆けつけられません。
弟と同居と言っても、日中は父一人で心配です。
夫とも相談の上、父の住まいを売却して私達の家の近くに引越して来てもらい、通いで私が面倒をみるという結論に達しました。
父の引越し先になる住まいとして、私達の家に比較的近い(自転車で約10分)マンションに目を付けました。
父と弟は以前こちら方面に長く住んでいたので、土地勘も有り好都合でした。

しかし、父が住んでいた家は父が相当入れ込んだ家なので、売却して引越すなど到底考えられないことでした。
案の定、弟はすぐ了解しましたが、父は猛反対。
何度も何度も電話で父を説得し、そのうち、やけっぱちになった父は「老いては子に従えか…」と言ってしぶしぶ了解してくれたのです。
その後は不動産業者に任せたため、比較的順調に売却・購入・引越しの話が進み、ボケが判明してから約半年後、1994年6月に引越しが済みました。

父がマンションに引越して来た日。
引越し業者が荷物の運び込みなどをしている最中、父は呆然としていました。
「ここはどこか?引越ししたのか?」と何度も私に尋ねました。
オートロックのマンションなので、管理人さんに父がボケていることも伝えました。
でも、父は一見普通に見えるので、管理人さんは父がボケていることは長らく忘れていたようでした。

父が引越して来てから、私は日中父の元へ毎日通いました。
ボケたらその後は数年で亡くなる…そんな話をどこかで聞いた気がして、父の元へ通うのも数年間だと思っていました。
数年で済めばいいか…と、その頃は内心冷ややかに思っていました。
それが10年続くことになろうとは…。

引越し荷物には、父が買った「どくだみ茶」の未開封パッケージが異常にたくさん有りました。
認知症特有の、買ったことを忘れて何度も同じ物を買ってしまったのでしょう。
父が頻繁にカードで買物をして、引き落としできなくなっていた買物の決済を弟は次々に片付け、カードは使えないようにしました。
ボケる前から時々カードで買物をしていた父でしたが、認知症の症状のため、必要以上にカードで買物をして決済できないでいたのでした。

その頃の父は、同じ事を何度も尋ねる、さっき言ったことも忘れてしまう、自宅で物を失くす(どこへ仕舞ったかわからない)、無くなった物は誰かが取ったと思い込み人を疑う…などの様子が見られました。
日常的な家電の扱いはできたので助かりました。
電話はワンタッチ登録して、電話機に「ここを押すとえすえの家」などと一目でわかるように書き、それで使いこなせました。

父は自分だけの生活のなかでは、まだ日常生活に大きな差し障りがなかったので、私は食事や家事をしに父の家に数時間通うお手伝い程度で済みました。
その頃「介護」という言葉はあまり聞き慣れず大袈裟に思えたし、知り合いや親戚関係には「通いで父のお手伝いをしている」と伝え、皆納得していました。

私は認知症についての正確な知識はあまりなく、老人のボケについての一冊の本(統計・原因が中心内容)を買って読みました。
その頃、認知症のお年寄りへの対応策についての本は見かけた覚えがなく、読んだ本にも対応の仕方は書かれていませんでした。
私はまだ認知症と真正面から向かい合う気がせず、父を特別扱いせず普通の人と同様に接するのが一番良いと思っていました。

それが10年向き合ううちに、私の気持ちも大きく変わってきました…。

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