そのまま退院したらええがね。
どんな形であれ、母を病院の外に連れて行き、気分転換をさせてやれるというのは、私にとって嬉しいことでした。1日に何十回も「殺してやる」と電話をしてくるようになる前の、本当に病気を克服したんじゃないかと思うような母の表情を覚えていたからです。
一旦、母の病室まで戻り、寒くないように上着を着せた後車いすを押しながら駐車場に向かっていると、「外に出たら、そのまま退院したらええがね」などと、父が無茶なことを言い出しました。
「……!」
後ろから見ていると、母の背中がピクッと反応したのがよくわかります。
「『ええがね』じゃないだろ。ようやく落ち着いてきたんだから、もう一踏ん張り頑張らないと」
「孝ちゃんは、母さんが可哀想じゃないのか?」
「……可哀想だとは思うよ」
「だったら……」
「じゃあ、逆に聞くけど、ちょっと前まで母さんからガンガン電話がかかってきてたよね?」
「あぁ。あれはツラかったがね」
「あれを電話じゃなく、目の前でやられても大丈夫?」
「とんでもない! イヤに決まっとるがね!」
「……でしょ?」
そのとき、母がボソボソとした声で話し始めました。
「で、電話……?」
「あぁ、散々困った電話をしてくれたもんな」
「なんの、こと……?」
「だから、『お前を殺してやる』って電話だよ。1日に何十回もかけてきただろ」
「……さぁ?」
どうやら母は、興奮状態で攻撃的な電話をかけまくっていた頃の記憶を無くしているようです。
「母さん、ワシも本当にツラかったがね!」
父も一生懸命アピールしますが、母は押し黙ったまま。
心の病気による異常行動だとわかってはいても、完全に忘れてしまっている母の様子には、何か釈然としない気持ちになったものです。
ワシが運転するがね。
そうこうするうちに、自動車の前まで来ました。
「ともかく、これから近くのショッピングセンターに買い物へ行こう。で、それが終わったら病院に戻ってくる。それがイヤなら、今すぐ病室に戻るよ」
と私が宣言すると、「……母さん、それでええかね?」と父が恨めしそうな声で母に尋ねました。
「……あぁ」
母が軽く頷いたのを合図に、私は母を車いすから降ろし、自動車へ乗せました。その後、トランクに車いすを積んでから運転席に戻ろうとすると、既に父がハンドルを握っています。
「母さん、久々の外出だし、ワシが運転するがね」
「頼むから、事故だけは起こすなよ」
「任せてちょー」
私は母とともに後部座席に座り、不安定な状態の母の身体を支える役割に徹することにしました。
父も自分なりに気を遣っているのか、いつものような急発進や急ブレーキもなく、比較的ゆっくりと運転しています。いつもなら別の車に抜かれるたびに、「畜生、死んじまえ〜」などと物騒なことをつぶやいているのですが、そうした素振りも見られません。
それどころか、バックミラーでチラチラとこちらの様子を伺ったりしています。やはり、なんだかんだ言っても、母のことを気にかけているのかな、などと思いつつ、事故を起こさないようにしっかり前を向いて運転するように声をかけようと思ったとき、先に「孝ちゃん!」と父から声をかけられました。
「ん、何?」
「お昼、何にしよまい?」
プッ。
父のいつもの調子に、私がズッコケそうになる姿がおかしかったのか、母がクスクスと笑っています。
私はその姿を見て、主治医が求めていたものはコレなんだろうな、などと改めて気がついたのです。