母さん、何もすること無いがね。
昼食に立ち寄った鰻屋でも、母は上機嫌でした。数カ月ぶりに食べる鰻をおいしそうに味わいながら、「やっぱり、こうして家族みんなで食べられるとおいしいなぁ」と、しみじみと話す母。「孝ちゃんのおかげだがね」と、調子よく合いの手を入れる父。
入院前の拒食状態が嘘のように機嫌良く食事をとる母の姿を見ているうちに、今回の外泊にあたって私が抱いていた不安も、杞憂に終わるのではないかと思えてきました。
その後、スーパーに立ち寄って、夕食用の寿司と、翌日の朝食用のパンを購入。父の配食サービスについて、この日の分については、事前に断りを入れています。逆に、翌日の昼食については、両親の分をまとめて頼んでおきました。これは、毎日ちゃんとした食事を父がとっているのを、母にも実感してもらうことで、より安心してもらえるはずだと考えたからです。
いよいよ実家に向けて走り出した車の中で「私、家に帰ったら頑張って掃除するからね」と言い出した母に、「いや、今回はあくまでゆっくりしに帰ってきただけなんだから、家事はダメ」と告げると、「全部、孝治にまかせっぱなしではかわいそうだから手伝う」と食い下がります。
「いや、本当に大丈夫だから。手伝わなくっていいって」
「少しぐらいなら病気にもいいはず」
「とにかく、今回はゆっくり休んでいて」
などと軽く言い争っていると父が、「母さん、何もすること無いがね。ワシも孝ちゃんにまかせっぱなしで、何も手伝う気なんて無いがね」と、大きな声で割り込んできました。
母と一瞬目を見合わせた私が「いや、父さんはちょっとは手伝えよ」とツッコムと、母は笑い出して「こんな人と何十年も夫婦をやってきたんだから。孝治も大変さがわかっただろう?」と、おかしそうに言いました。
そうだね。
実家に到着したときも、母は意外なほどに冷静でした。
偶然、家の外に出てきていた隣の奥さんに、「あら、横井さんの奥さん。長いこと姿が見えないから、どうしたのか心配していたんですよ」などと声をかけられても、「ええ、調子が悪くてしばらく入院していたんです。今日は、久しぶりの外泊なんです」と、普通に受け答えしています。他人に対しても、必要以上に警戒せずに会話ができるようになった母の姿を見て、私のなかでの退院に向けた期待感は、さらに高まりました。
家の中がさほど荒れていない様子にも、母は安心したようでした。
「結構、綺麗にしているなぁ」と感想をこぼす母に、自信満々の顔で「当たり前だがや」と返す父。「どうせ全部、孝治が掃除してくれたんだろう?」と、ツッコミを入れる母に、「そんなことあらすか。ワシもゴミはゴミ箱に捨てるようにしたがね」と返す父。2人とも、他愛もないやりとりが楽しくて仕方がないように見えます。
私の入れたお茶を飲んだり、テレビを見たりしているうちにあっという間に時間が経ち、夕食、お風呂も問題なく終了。
いつでも両親の様子をうかがえるようにと、両親の寝室の横にあるリビングに毛布を持ち込んで寝る準備をしている私に近づいてきた母が、「孝治、今日はありがとう。早く良くなって、退院できるように頑張るから」とひと言。思わずグッときた私は、「そうだね」と短い言葉を返すのが精一杯でした。