杞憂。
外泊2日目。私は津駅まで両親に送ってもらい、大阪に1人で戻りました。
これは、過去の外泊時にも何回か繰り返してきたこと。両親2人だけの状態でちゃんと暮らせるのか、薬を飲み忘れたり、病院に行くのを嫌がったりしないのかなどを確認するため、主治医と相談して、わざと私がいない状態を作るように決めたのです。
心配は尽きないものの、私が三重県で同居するわけにいかない以上、両親が自立した暮らしに戻ることは必須条件。1日目の夕方、ケアマネジャーのKさんに退院が決まりそうなことを伝えるついでに、様子を見に行ってもらうように頼みました。
大阪では、留守中の仕事が山のように溜まっています。しかし、母が退院できるかどうかの状況では、なかなか集中できません。同僚から「身体の調子でも悪いのか」と心配される始末でした。
そうこうするうちに、3泊4日の外泊も終了。両親だけでなく、Kさんや主治医とも連絡を取り合って大きな問題がないのを確認し、とうとう1週間後に退院することが決まりました。私の心配は、めでたく杞憂で終わったのです。
主治医との電話を終えて職場に戻った私を端から見れば、今にも歌い出しそうなほどご機嫌だったことでしょう。
ご主人の言う通りです。
退院の日は、よく晴れていました。
入院したときは雨に降られて、ただでさえ辛い気持ちが、いっそうブルーになったなぁ、などと思いつつ、病院に近い駅で父と合流。
母の荷物は、病院側できれいにまとめてくれていたので、病室から運び出すにも時間はかからないはずです。
病室に行くと、母が一生懸命に話をしている後ろ姿が見えました。どうやら、入院以来、何かと仲良くしてくれているIさんというお婆さんに、お別れを告げているようです。
「……しんどいときも、Iさんが……」
「……」
「……だから、私は……」
「……」
Iさんの言葉はボソボソとしており、私にはよく聞き取ることができなかったのですが、母にはよく伝わっているようです。Iさんの手を取って、母なりに精一杯の感謝を伝えているようでした。
Iさんには確かにお世話になったし、母が無事に退院できるようになった一因でもあるなぁ、と私が考えていると、父が空気の読めない行動を。「母さん、こんなボケた人ばっかりのところからは、早く帰るがね!」と、大声で声をかけたのです。
母と私の非難のこもった目にも気づかず、父は「早く、早く!」と騒ぎ続けます。そして「ワシ、本当はこんなとこに来るのはイヤだがね!」と、ひと言。
配慮のカケラも感じられない発言。我が親ながら、あまりの情けなさに涙が出そうになりました。
頭をはたいて怒鳴りつけようと、父のほうに足を踏み出したとき、私の後ろから「ご主人の言う通りです」と、主治医の声が。
「横井さんも、ご家族も、本当に辛かったと思います。ご自宅でゆっくり暮らせるなら、それが一番。入院が必要な状態には、二度とならないでくださいね」
私たちはただ、頭を下げて感謝の言葉を述べることしかできませんでした。こうして母の約1年にわたる入院生活は終わり、再び父との二人暮らしがスタートしたのです。