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親ケア奮闘記Part3【迷走編】

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【迷走編・第1回】小康状態。

ほのかな期待。

母の入院などでバタバタ過ごした数日間が終わって、1週間ほどが経過した頃。当初の不安を裏切るかのように、父は思いのほか落ち着いた日々を過ごしているようでした。

また、現状やこれからの対応について、妻ともいろいろと話し合いを行い、「できるだけの手伝いはする」と言ってもらったこともあり、私の気持ち的にもちょっとした余裕が生まれつつありました。頭のなかでモヤモヤしていた悩みを妻に話すことで、自分の気持ちを整理することができたのも大きかったと思います。

母については、今はまだ体力の回復が優先のため、本格的な向精神薬の投与はできないものの、実家で暮らしているときのように悪化の一途をたどることはないだろうし、何より、専門家たちに囲まれて暮らしているわけなので、私自身が毎日、神経を張り詰めた状態で様子を窺う必要もありません。

「とりあえず3カ月」。
主治医が言ったその3カ月を持ちこたえることができれば、元の暮らしに戻れるかもしれない。それが半年になったとしても、この調子ならどうにかなるかも。少しずつ、そんな希望が湧いてきました。

父に対しては、朝起きてから寝るまでにしてほしいことを箇条書きにしたリストを1週間分Faxし、それを壁に貼って毎日何回も確認しながら一つひとつこなしていくようにさせました。

また、実家のさまざまな場所に張り紙をして、父の「うっかり」を防ぐようにしました。
例えば、次のような感じです。

・玄関には「外出から帰ったら、カギをかける! 就寝前に戸締まり確認!」
・各室のドアには「開けたら締める」
・食卓の電気ポットには「毎朝、水を入れ替え! 寝る前に電源コードを外す!」
・リビングのサイドボードに置いた小さな箱の側には「車のカギや免許は、ここに置く」
・電子レンジには「ご飯は、○分にセットして『あたためる』を押す。弁当の場合は、○分」

連日の深夜残業。

その頃、私の仕事は少しややこしい状況を迎えていました。当時は名前を出せば誰もが知っているような大手企業に勤めていたのですが、そういうところにありがちな派閥争いの巻き添えを食ってしまい、多くの仕事や雑用、妙な交渉ごとなどを押しつけられるハメになってしまったのです。

当然、上司などには親の状態や、私が支えるしかないことなどを話していたのですが、「今はそれどころじゃない。精一杯、働いてくれ」と一蹴。結局、毎日のように深夜残業を行うことになりました。週末に実家に帰る時間を作るためには、平日に無理をするしか無かったわけです。

その上司自身は、毎日早く帰って飲み歩いていたり、「横井、たまには飲みに付き合え」などと強要してきたような記憶もありますが、きっと気のせいなのでしょう。(笑)

毎日毎日、深夜にタクシーで帰宅する日々。
次々と発生して、増える一方の仕事。あっという間に1週間が過ぎ、実家に戻らなければいけない週末になります。

「こんなにすぐ、仕事を持って帰らないといけない状況になるとはなぁ」
そんな愚痴を言いながら、私は新しいノートパソコンとプリンターを購入して三重へ。
NTTのADSL工事の立ち会いも行って、なんとか作業できる環境を整えました。

母に別れを告げ、病院を後にした私たちは、津駅へと向かいました。まとめて取った有給休暇も、この日で終わり。翌朝からはいつものように仕事に行かなければいけません。

病院へ面会に行ってみると、母は少しずつではあるものの、落ち着きを見せているようです。心なしか、入院前より顔色も良くなっているような気がします。残業続きで疲れていても、母に心配をかけるわけにはいきません。

「家のことは俺に任せて、しっかり治してね」
「……うん」
「孝ちゃんに任せれば、安心だがや」
「いやいや、父さんも頑張れ」
そんな会話を交わし、実家に戻って溜まっていた家事をこなし、1泊2日で再び大阪へ。

こんな感じで大阪と三重を行ったり来たりしながら、しばらく同じような日々が続き、あと1週間でゴールデンウィークを迎えようとする頃。また、予想もしていなかった事態が起きてしまったのです。

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