父の抵抗。
病院での受診を勧める私を制したのは、前日、しょんぼりしていただけの父でした。
「母さんは、少し疲れているだけだ。病気なんかじゃない……」
「いや、これはどう見ても普通じゃないって」
「……お前は母さんを病人にしたいのか?」
「そういうことじゃないだろ。早く元の母さんに戻ってほしいだけだ」
「ワシがついているんだから、大丈夫だ」
そのとき、私のなかで怒りのスイッチが入りました。
普段、私は滅多なことで怒ったりしないのですが、父と話しているうちに、どうにも自分の感情をコントロールできなくなってしまいました。
「お前がついていてこれだから、病院に行こうって言ってるんだろ!」
「……孝治」
「『元気です。大丈夫です』と嘘を言い続けてきたくせに、 なんで未だに信じてもらえるって思えるんだよ!」
「……孝……治」
「昨日、母さんの裸を見たけど、打ち身やアザがいっぱいだったぞ。
父さんが殴ったり蹴ったりしてるんじゃないのか?」
「……仕方が……なかったんです」
「やっぱり、そうかっ!」
カッとなった私は、父の胸ぐらをつかみました。
「か、母さん、助けてくれ……。ワシを捨てて、病院に行かないでくれ」
おろおろした父は、私から目をそらし、すがるような顔をしながら母に言いました。
母の抵抗。
母のほうに目を向けると、さっきまで険しい顔をしていたはずなのに、そのときだけは不思議なほどに穏やかな表情をしていました。
「孝治。心配させてすまん……」
「母さん?」
「でも私は病院なんか行かない。
そんなことをしたら、お前の将来のためと思って守ってきたこの家を取られてしまう」
「……いや、そんなことはないから」
「お前にはわからないだけだ。苦しいけど、私なら大丈夫」
「いや……大丈夫じゃ……ないだろ……」
「親に手を挙げたりするもんじゃない。私はそんな子どもに育てた覚えはない」
私がゆっくりと手を離すと、父は私の前に土下座して言いました。
「お願いです。チャンスをください。母さんを連れて行かないでください」
「孝治、私からも頼む。病院なんか行きたくない」
「お願いします」
「頼む」
どうにかして両親を説得し、病院に連れて行こうと考えていた私ですが、頭を下げ続ける二人を見て、これは一筋縄ではいかないと思いました。
「……わかった。今日のところは大阪に戻る。でも、またすぐに様子を見に来るから」
ゴミだらけだった実家を掃除し、日持ちがする食品やお茶などをたっぷりと買い置きして、父に対し、何があっても暴力をふるうことを禁じて、迎えに来たタクシーに乗り込む私を見送る両親の姿が、妙に嬉しそうに見えたのは気のせいだったんでしょうか。