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親ケア奮闘記Part1【発端編】

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【発端編・第1回】始まりは、突然に。

年をとってから生まれたひとりっ子。

私の父は大正15年7月、母は昭和11年1月の生まれです。
両親が年をとってから結婚したこともあり、ひとりっ子の私は溺愛といってよい状態で育てられました。
三重県で生まれた私は、関西の大学に入ったのをきっかけに独り暮らしを始め、それ以来、就職・結婚と関西に根を張った生活を送っています。

実家を離れたあとも、正月やゴールデンウィーク、夏休みなどはもちろん、2〜3日の連休があったらマメに三重県に帰省して、実家の大掃除や大きな買い物を手伝ったりしていました。
また、忙しいときにも週に1回ぐらいは大阪から実家に電話して、友人の少ない母の話し相手を務めたりもしていました。

父のほうが母より10歳以上年上であること、昭和から平成へと年号が変わる頃に父が脳出血で倒れて生死の境をさまよい、それ以来左半身に軽いマヒが残っていることなどから、私のなかでは、いずれ父が亡くなった後、母の面倒をどうやって見ていこうか、という漠然とした考えだけがありました。

電話の向こうの母が、音を立てて壊れていく……。

すべてを変えたのは、一本の電話でした。

平成13年夏、いつものように仕事を終えて実家に電話をすると、私の耳に泣き叫ぶ母親の声が突き刺さりました。
何事があったのかと問いただす私に、母はただ「すべてを失ってしまった!」「何もわからない!」と叫ぶのみ。
「母さん、落ち着いてくれ」という父の弱々しい声が、電話越しにかすかに聞こえます。

必死の思いで母をなだめすかし、父に電話を替わってもらって事情を聞くと、「朝から急に様子がおかしくなった」とのことでした。
私が「すぐにも実家に帰る」「母を病院に連れて行く」と言うと、父が必死になって拒みます。
父いわく「以前、自分が死にかけたときに母が救ってくれた。今度は自分の番だ」。
しばらく言い合ったのですが、どうしても父が譲らず、逐一電話で連絡を取り合うという約束で、しばらく様子を見ることにしました。

今思えば、これが大きな失敗だったんです。

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