
【闘病編・第8回】入院の日。 その2
……警察、ですか。
実家で母が包丁を構えて「病院に行かない」と言っている。 ――父からの電話でその事実を知った私は、一瞬、頭の中が真っ白になりました。
「……孝ちゃん、わしはどうすればいいんだ?」 父の問いかけも、何か遠くから聞こえているような気がします。
病院に行かないって……。 なんで? あんなに約束したのに、なんで?
「もしもし、孝ちゃん、聞こえてる?」 「あ、あぁ……」 「わしは、わしはどうすれば……」 父の情けない声を聞きながら、私は少しずつ冷静さを取り戻していきました。
「母さんと電話を替わってもらうことはできるかな?」 「玄関のところで包丁を構えていて、怖くて近寄れん」 「声をかけて近くに来てもらうのは?」 「わしが殺されてしまうがね」 「う〜ん……。何か方法がないか、考えてみる。すぐにこちらから電話するから、一端切るね」 「早くしてちょー……」
電話を切った私は、まず母がそれまで通っていたクリニックに連絡をしてみました。 参考になるアドバイスを受けられるかもと思ったからです。 しかし診察が始まるまで、まだ2時間以上も前の時間だったので、誰にも出てもらえませんでした。 「どうしよう……」 次に私は、入院する予定の病院に連絡をすることにしました。 入院治療を行っている病院なら、当然誰かがいるでしょうし、 うまくお願いして、母を迎えに行ってもらうことができないかと考えたのです。
幸い、電話はすぐに繋がり、当直の医師とお話しすることができました。 これまでの経緯をかいつまんで伝え、母のお迎えをお願いしようとすると、 「申しわけないですが、私たちの仕事は病院に来た患者さんを治療することで、送迎はできません。 どうにかして連れてきてください」と、先に言われてしまいました。 「いや、でも包丁を持って『入院しない』と言っており、素人が手を出せるような状態ではないんですが」 「そうは言われましても……」 「どこか、こういう相談に乗っていただくところはご存じありませんか?」 「そうですねぇ。警察に連絡されてはいかがでしょうか?」 「……警察、ですか」
また何か起きたの?
病院のアドバイス通り、私は三重県警に連絡を取りました。 さすがに110番に電話するのはためらわれたので、ネットで通常の連絡先を調べて電話。 まだ早い時間帯でしたが、受付の方に事情を話すと、 生活安全課というところに電話を回してくれました。
担当の警官にこれまでの経緯と、助けてほしい旨を伝えると、 「精神病についてのトラブルは、保健所のほうで相談してもらうことになっているんですが」とのこと。 「先ほど病院に連絡をしたとき、包丁を構えていることを話したら、 『警察に連絡するように』と言われたんですが」 「う〜ん、確かに自傷他害の危険もありますしねぇ。 わかりました、今から準備して、ご実家に向かいます。 どこの病院に連れて行けばよいのか、教えていただけますか?」 「本当ですか? ありがとうございます! 病院は……」
警官に病院の名前と所在地などを伝え、何回もお礼を言いながら電話を切った私は、 父に報告の電話をかけることにしました。 「もしもし、父さん?」 「あ、孝ちゃん! 随分待ったけど、どうなった?」 「今、母さんの様子は?」 「玄関のところで包丁を持って座ってる」 「電話、替われそう?」 「勘弁してちょー」 「仕方ないか。もう少ししたら、警察の人たちが来て、母さんを病院に連れて行ってくれるから、 荷物とか忘れずに持って着いて行って」 「警察? パトカーなんかが家に来たら、体裁が悪いがや」 「そんな場合じゃないだろ! とにかく荷物を忘れないでね」 「荷物ってなんのことだ?」 「この前、俺が帰って母さんの着替えやタオル、歯ブラシとかを鞄に詰めてやっただろ」 「あの鞄なら、母さんがどこかへやった」 「どこかへって……。警察が来るまで、探しておけよ」 「孝ちゃん、それより困ったことが」 「だから、なんだよ?」 「わし、うんこがしたくなったんだけど」 「トイレぐらい勝手に行けよ!」 「母さんが玄関にいて、怖いがや」 確かに実家のトイレは、玄関を入ってすぐのところにありました。 「母さんに『トイレに行かせてくれ』って頼めよ。さすがにトイレに行くぐらいで刺さないだろ」
父との電話が終わったときには、既に周囲に同僚たちが出勤してきていました。 「また何か起きたの?」 「今日、三重に帰るんじゃなかったっけ?」 心配そうに声をかけてくれる同僚たちに事情を話しながら、 私は残りの作業を大急ぎで終わらせ、朝一番の会議に臨みました。 重要な会議だったのですが、ボロボロの出来だったことが心に残っています。 (続く)
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